はらまりなの空回りな日々

旅行や日々のあれこれを介して、思ったことを綴っています。今何かしらに影響を受けてるんだな、と暖かく見守っていただけると幸いです。何卒。

マオリ流の子育て

ニュージーランドの首都ウェリントンから、車で北へ1時間ほど走ったところにあるのが、海辺の小さな町オタキ。

 

私が高校1年生の頃通っていたオタキカレッジで出会った親友ジュリータは、

オタキで生まれ育ち、今はこの自然豊かな町で2人の子供を育てています。

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広い牧場や森の周りに川が流れ、川は海へと繋がる。

それぞれの場所にそれぞれの居場所を求めた生き物達が暮らしていて、人間もその一部としてごく自然に存在している。

 

そこには「人間は自然の一部に過ぎず、それを支配するものではない」という先住民マオリの哲学が、根底にあるのです。

 

オタキはマオリにとって歴史的に重要な場所とされており、集会所やマオリ学校があったりと、マオリ文化が根強く残っている場所。

 

マオリの血が入っているジュリータも、マオリを自分のアイデンティティーと捉えており、子供達にも「地球と共に生きる」マオリ哲学を継承しています。

そして自然豊かなオタキは、自然への敬意や共存について教えるのに、とても良い環境が整っています。

 

天へと高く伸びる木々を見て、自然の圧倒的なパワーを感じ、道なりに生えるキノコや花を見つけては、生命の息吹を享受する。

 

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海の冷たさや広さを体感し、どこかからたどり着いた木やモノを触っては、この海はどこと繋がっているのだろう、と好奇心を抱く。

 

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犬と共に森で遊び、海で走り、

近所のロバと友達になって、エサをあげる。

 

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「自然や生き物と共存する」という考えは人間同士の関係にも浸透していて、

ニュージーランドには、マオリやヨーロッパ系の人たちだけでなく

アジア各国や、南太平洋諸島からの移民もたくさん住んでいます。

 

元クラスメイトで、フィジー島出身のアリシマもそのひとり。

結婚してオーストラリアに引っ越した彼女に連絡してみると、今回たまたまオタキに帰郷しているとのことで、彼女とも10年ぶりに再会できました。

 

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私がジュリータやアリシマに出会ったオタキカレッジへも、10年ぶりに訪問。

 

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懐かしい校舎や校庭を歩いていると、あの時の空気や匂い、緊張や暖かさが、パズルがサッと合わさる様に思い出され、過去にタイムスリップした様な、不思議な感覚に陥りました。

 

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初めて経験する「マイノリティー」に心が折れそうになりながらも、 新しい環境でどうにか居場所を見つけようと、悩み、喜び、泣き、笑いながらめまぐるしい日々を過ごした10年前。

孤独を感じ、壁を作っていた私を「仲間」と呼び、ひとりの人間として認めてくれた友人たちのお陰で、10年後「第二の故郷」としてオタキを訪れることができたことが、本当に嬉しかったです。

 

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ジュリータの息子ボストン君が、記念に撮ってくれました。

 

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最近ジュリータは子育ての合間を縫って、薬草などを使った伝統的なマオリ医療を学んでるらしいです。

そんな彼女が幼い頃父に教えられ、ずっと続けていることが、「毎日30分は裸足で地球を感じる」こと。

 

靴を履かずにスーパーへ行ったりするニュージーランド人ですが(一部です)

彼女は、「当たり前だけど、大切なこと」を忘れないために、必ずコンクリートじゃない「地球」の砂や土を子供達にも踏ませる事を心がけているそう。

 

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自然のなかの「人間」の位置を自覚し、「地球人」として地球に、人に、自分に、愛を与えられる人を育てるマオリ式の子育て。

 

お金や権力で人の価値を決めてしまいがちな私たちですが、愛を持って周りのものと「共存」できる人こそ、本当に価値のある人なのかも知れません。

 

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10年ぶりの再会

2018年4月28日 

ウェリントン空港到着。

10年ぶりのニュージーランド

 

懐かしいジュリータの笑顔が近付いてきて、私を強く抱きしめる。

私たちは、夢にまで見た再会を実感しようと、強く強く抱きしめ合った。

10年の月日が流れていた。

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中学の終わりから高1の終わり、まさに「思春期」をニュージーランドの首都ウェリントンから車で1時間程の海辺の街、オタキで過ごした。

 

体中に黒いタトゥーを彫ったマオリ族系の先生が、多様な髪や目の色をした学生がギュウギュウに詰め込まれた教室に私を招き入れ、学生達に紹介する。

物珍しそうに私を凝視するクラスメイト達。

彼らの会話に耳を傾けるが、聞き慣れない英語はさっぱり理解できない。

 

やっと仲良くなったクラスメイトに誕生日を聞こうと、

「うぇん いず ゆあー ばーすでい?」

と何度も話しかける。が、通じない。

「バス(車)?」

「、、ちがう。ばーす」

「ああ!バス(風呂)」

「だから、『ばーすでい』だって!」

てなことを繰り返し、元々なかった自信が消滅間際まで小さくなって行く。

 

そんなもんだから友達もあまりできず、

できても、「どうせ私と話しても楽しくないだろう」と卑屈に思う憂鬱な日々を過ごした。

誰が悪い、とかじゃなくて、私はひたすら自分に自信が持てなかった。

 

そんな自己否定の日々を続けていた私の高校生活であったが、ひとりのクラスメイトによって希望の光が差し込む。

 

ある日、シンデレラの様な金髪の女の子が私の隣に座り、他のクラスメイトに話しかけるのと同じ調子で「ハウアーユー?」と私に尋ねた。

 ジュリータという名前のその女の子は、「アイムグッド」と返す私を見て口角をぐっと上げて微笑んだ。

彼女の真っすぐな目が、私をひとりの人間として見てくれていることは、幼い私でもすぐに分かった。

初めて現地の人に対等に見てもらえた様な気がして、すごく嬉しかった。

 

それから毎日一緒にラグビーをしたり、裸足でテニスをしたり(案の定足の裏を火傷)、つまらない授業を受けるうちにどんどん仲良くなり、私は凛々しく、暖かく、自然体な彼女が、大好きになった。

ありのままの私を包んでくれた彼女の優しさは、戸惑いや寂しさに凍える私の心を熱くした。

そんな彼女との思い出を日記に綴ることが毎晩楽しみで、文章を書くってこんなに楽しいんだ、と気付いたのもこの頃だった。

 

そんな愉しい時間は風の如く過ぎ去り、とうとう日本へ帰国する日になった。

バス停まで見送りに来たジュリータは「これを私だと思って」と人形を私に手渡した。緑の目がジュリータそっくりの女の子で、長い黄色の髪の毛からは彼女の優しい香りがした。

 

空港に向かうバスの中から、涙を拭う彼女に向かって必死で手を振る。

次いつ会えるかわからないわたしたち。初めて経験する、先の見えない別れ。

もっと話したかった、もっと一緒に居たかった。

そんな名残惜しい気持ちを抱えたまま、私はニュージーランドを後にした。

 

 

それから10年で、私たちの環境は大きく変わった。

ジュリータは二人の子供のママになり、

私は米国の大学を卒業後、日本に戻って仕事を始めた。

 

いつも焦って前へ進もうともがく私は、10年間で8回も住所が変わった。

しかし、そんな私がどこに居ようと、ジュリータはいつも手紙やプレゼントを送ってくれた。

ニューヨークの大学で壁に打ち当たった時、就職に失敗して落ち込んだ時、恋が破れたり、どうしようもない孤独に包まれた時、いつでも愛情たっぷりの長い手紙で私を肯定してくれた。彼女の手紙は、愛の存在をいつでも証明してくれた。

 

テクノロジーが発展しようともずっと文通を続ける、そんなアナログな距離感が私たちには合っていた。

そんな関係が続いていたが、彼女の子供が少し大きくなり、私も就職して余裕ができた、「10年」という節目の年に再会する事になった。 

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ジュリータの運転する車は空港を出発し、私たちが出会った北島の小さな街オタキへ向かう。

ウェリントンからオタキまでは、最近高速道路が建設されたらしく、本来なら1時間で到着できる。

しかし私たちは、夕日に照らされる海岸通りをゆっくり進みながら、それぞれの10年間について語り合った。

 

ジュリータの旦那との出会い、結婚、19歳で息子を出産したこと。 

今は3歳の長女もいて、4人で暮らしていること。

オタキ唯一のピアッサーとしてピアスを開ける仕事をしていること。

お母さんの家の隣に家を買って、10年後には自分の持ち家になること。

 

私がアメリカの大学を卒業し、現在は広告で働いていること。

本当は書く仕事がしたいこと。

今は7年ぶりに家族4人で一緒に住んでいること。

 

たった数十分で10年間の隙間が縮まっていく。

とても驚いたが、私たちはやはり見えない何かで強く繋がっていたんだ、と確信した。 

それに、彼女と対等に英語で話して、笑って、共感し合えている事が、奇跡のように感じた。辛い事が多かったこの10年間が報われた気がした。

 

私はジュリータに出会って、乗り越えたい壁を見つけていなければ、アメリカの大学に行きたいなんて思わなかったと思う。

成長したいなんて、こんなに強く思わなかったと思う。

幼い私にとって、それほど彼女の存在は大きかった。

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車がワイカナイの小さな丘にたどり着いた。

 

丘の頂上から見える、懐かしいムラサキ色の夕焼け空。

遠くに浮かぶキャピティ島の後ろで夕日がキラリと光り、海を、そして町をオレンジ色に照らす。

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15歳のなにも分からない私の心を大きく揺らした町。

私が世界へと歩き出した原点に、やっと戻って来れた。

 

ジュリータが「この場所、私の旦那が教えてくれたの」と微笑む。

彼女が暮らすこの街は、高層ビルなんてひとつもなく、電車も1日2回しか停まらない。山と海と川に囲まれ、社会から隔離されたこの美しい町で、彼女は人生を根付かせて生きている。

 

懐かしいオタキのメインストリート(フィッシュ&チップスという魚の天ぷらとポテトの店が、短い通りになんと5軒もある)を通り抜けるとオタキビーチがあり、そのすぐ近くに彼女が家族と住む家がある。

 

車が家の前に停まると、彼女の旦那と子供達がドアの前に立って私を待つのが見えた。

恥ずかしそうに私を見つめる5歳のボストン君と、3歳のジュニークワちゃん。

背の高い旦那さんのヘマさんが、「ようこそ」と家へ迎え入れてくれた。

 

たくさんの絵や飾り、植物で色とりどりに飾り付けられているリビングでは、4月末というのに暖炉で木がパチパチ燃えていた。

季節が日本と真逆のニュージーランドは、ちょうど秋の終わり頃。

夜をゆっくり暖炉が暖め、暖かい空間を作っていく。

 

私はピンクの壁紙のジュニークワちゃんのお部屋を使わせてもうことになった。

可愛いランプや絵がバランスよく飾られている部屋からも彼女が子供達を愛情いっぱい育ていることが、よく伝わって来た。

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夕食には彼女の作ったマオリの伝統スープを食べた。

クムラという甘い芋や、ニンジンなどを豚と一緒に煮たもので、素材の旨さがしっかり感じれる、素朴だけど贅沢なスープだった。

 

食後には、旦那さんのヘマさんがチョコクッキーを焼いて、ホットミルクと一緒に出してくれた。

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ジュリータが、私が送った10年分の手紙や、写真アルバムを持って来てくれたので、一緒に見返す。

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昔自分が書いた手紙を見るのはとても恥ずかしかったけど、あの頃の私はどうしても彼女に感謝を伝えたかったんだと思う。

彼女が手紙を全て保管してくれている事にも感動した。

 

厚いアルバムの一枚目には、私が日本に帰国してすぐに送った年賀状が挟まれていて、幼い顔をした高校1年生の私が写っていた。

彼女にとっても、私が特別な存在なんだと思えて嬉しかった。

 

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彼女のアルバムには友達や家族の写真ばかり貼られ、彼女自身の写真がほとんど無い。

自分よりも周りの人たちを大事にする彼女らしいアルバムだな、と思った。

 

ジュリータの家のトイレのドアに、こんなポスターが貼ってあった。

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「小さいことを楽しみなさい。振り返った時に、それがとても大きく、大切な思い出だったと気付ける日のために」

 

お金や地位が物を言う社会では、つい大きなビジョンばかり思い描いて、小さい思いやりだとか、楽しみだとかをおろそかにしてしまう。

わたしも焦ってしまって「当たり前の生活」を愛でる事を忘れる時が多々ある。

  

しかし、小さな幸せが、大きな幸せに繋がる事を、ジュリータは誰よりも知っている。

三ツ星レストランなんて彼女にはどうでも良い事で、地球の恵みである食材を、皆で分け合って楽しく机を囲むことが幸せだと、彼女は知っている。

 

毎日周りの人々と地球の恵みに感謝し、当たり前を有り難いと思える彼女。

こうして10年振りに再会しても、彼女のそういうステキな所は変わってなくて、自分の家族を目一杯愛している彼女は、とても美しかった。

 

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クリープハイプな夜

 

2018年は出会った感動的なもの

すべてここに残しておこうと思います。

 

2/1 クリープハイプのライブ@フェスティバルホール

 

 

「百円の恋」という、人生を諦めているパラサイトシングルの女が、恋をして、人生ともう一度闘う、熱いボクシング映画がありまして。

その女が試合で負けて、ぐちゃぐちゃに悔し泣きをしながら、好きな男と2人で画面から消えて行く、そのラストシーンで流れていたのが

クリープハイプの「百八円の恋」。

 

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」

「居たい居たい居たい居たい」。

と絞り出すように叫ぶAメロ。

 

 

人間の恥ずかしくて熱い部分をむき出しにしたその映画のラストに、この叫びの歌が合わさることで、主人公の闘い抜いて掴んだ「普通の幸せ」がより輝く。

その美しさにクラっときてからというものの、クリープハイプの歌の面白さ、美しさ、切なさの虜になっておりまして。

 

クリープハイプのライブを見るのは去年の夏フェス以来。

フェスのクリープハイプの出番は夕方から夜に移る最も切ない時間帯で、

良い時間も、一日も、夏も、刻一刻と終わりに近づいているんだな、、

と感じさせる夕焼けに、彼らの演奏がぴったり重なって、すごくすごく美しかった。

 

今回はそれぶり、初めてのワンマンに行ってまいりました。

 

すっごく楽しみにしてて、上司には定時で帰ると一週間前から伝えてたけど、やはり残業してほしいと言われて。

できれば今日は帰らせてほしい、と伝えたら「バイトじゃないんだから。仕事より大事な用事ってなに。言ってみろ」と言われてしまい、

ああ、全く好きになれない仕事を生活のためにやっていくというのは辛い。

と思いながら、今日だけはお願いします、と頼みこみ、コソコソ文句を言われながら、嫌味っぽい「疲れ様でした」を背に駅に向かう。

そんな時に限って電車は人身事故で動かないし、タクシーも全く捕まらない。

まったく思い通りにいかないな、と悲しくなりながら会場に向かい、急いで席に着く。

 

照明が消えて、ボーカル尾崎世界観のギターソロでライブは幕を開ける。

楽しいはずなのになかなか楽しめなくて、

気づくと最初の曲が終わり尾崎さんが喋っている。

 

今回のツアータイトル

『今からすごく話をしよう、懐かしい曲も歌うから』らしく、彼の10年以上の下積み時代の話を交えながらライブは進む。

 

当時バイトで、頭を下げながら偉い人の机の下を掃除するのがすごく屈辱的で、「俺はこんなことをするために生きているんじゃない」と思いながらバンドで成功する夢を追いかけていたそう。

 

そんな長年の晴れない日々を歌ったのが

『バイトバイトバイト』。

私もこんなことをするために生きてるんじゃないよな、と思って最近モヤモヤしてたんだけど、尾崎さんが

「ここに集まってる人たちは、俺も含めて大した人間じゃないんだから 」

と現状を笑ってくれて、とても優しくて肩の荷がふわっと消えました。

   

クリープハイプの歌は全部切ないんだけど、

絶望を拭うユーモアと希望を孕む歌詞が

ヒトと関わることも、明日が来ることも楽しみにしてくれる。  

 

 どうせ放っておいても明日はくるし、

ヒトと関わらないで生きるなんて不可能だし、

生きるためには働かなきゃならない。

希望はしぼんだり膨らんだりする。

 

そんな毎日でも、イライラするよりキラキラしてたいから、催眠術をかけてくれる

クリープハイプにはこれからもお世話になります。

 

あっという間の2時間。

気付けば気分は晴れて、明日が楽しみになってました。


つらつら色々言いましたが

毎日絡まり合って、空回り合って、

やっぱり人って間抜けで面白いな

と思える秀逸な歌詞がしびれるクリープハイプを是非。

妹の卒業コレクション見にパリへ行った話 その2

パリ三日目は、朝からESMODE PARISの学生達による

卒業コレクション。

 

妹の通うESMODEは、世界14カ国21校で展開されている

服飾専門学校で、日本にも東京と京都に分校があります。

 

 

妹は、堀江に去年まであった「大阪校」に二年通って

服飾の基礎を学んだ後に

去年から「パリ校」にある子供服コースに通って

ステキな子供服を作るための専門的な勉強をしています。

 

 

 

ライブハウスをランウェイにした会場を

ネオンライトが染め、

親族、友達、先生方、生徒達で会場が膨れ上がる頃

学校長の始まりの挨拶が始まり、

音楽と共に証明が暗くなると

 

ショーのスタート。

 

 

 

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パリ校は、日本の分校にはない専門的なコースがいくつもあり、

ランジェリー科や、アクセサリー科、コスチューム科といった

日本にはないコースがあるのも特徴。

 

自分の興味を伸ばし鍛えれる環境で勉強し、

制作を重ねる事で

これまで存在すらしなかった物を

美しく創り上げる技術を磨いた学生たち。

 

卒業コレクションは、彼らにとって

学生時代最後のファッションショーなのです。

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普段も着れそうなオシャレなスタイルから

ラグジュアリーなドレスまで

学科ごとに 素敵な衣装に身を包んだ

モデルさん達が続々と登場。

 

パリの本校は、世界中の分校から生徒が集まるので

いろんなデザインがあって面白い。

 

妹が大阪校で学んだ刺繍も

パリの生徒達からしたら新鮮らしく、

やり方教えてあげてる、って前に話してたし

色んな興味やスキルを刺激し合える環境で

学べるっていいことだよね。

 

 

音楽が変わり、

待ちに待った子供服学科のショーに。

 

 

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Défilés du midi - ESMOD 2017 - ESMOD INTERNATIONAL FASHION UNIVERSITY GROUP

20:55 辺りから出てくる3人の女の子たちが

妹の服を着て出てくれたモデルさんたち。

 

妹がいろんなツテや、ネットを使って

学校のある平日に出てくれる女の子を探しまわった

結果見つけた貴重なモデルさんたち。

 

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可愛い服を着て 嬉しそうにランウェイを歩く子供達を見て

会場の大人達にも笑顔が伝染してた。

 

そんな空間を、服によって生み出せる妹は

とてもかっこいいな と思ったよ。

 

昔から誰よりも優しくて

思いやりがたっぷりの妹が作る服は

子供達への優しさが詰まっていて

きっと着てる子供達みんなを幸せにできる服だと思う。

 

そして子供達の笑顔は、今回みたいに

大人にもおもしろいくらいに伝染するからね。

 

 

自分の才能を信じて行動し続けるのは

とても難しいことだけど、

 

これからも、あゆには人を喜ばせれる服を作る

センスも技術もあるということを

信じて突き進んで、

たーくさんの人たちに愛される

服を作り続けてください。

 

そんな妹の素敵なショーを生で見れて

大満足でした〜

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妹の卒業コレクション見にパリへ行った話 その1

有給とって、

飛行機のって、パリへ。

 

飛行機で見た

ララランドに

パリに着く前から早速嗚咽。

 

夢を追いかける恐ろしさと

美しさったらね。

 

 

『夢を追うのは痛いけど

世界は我々を必要としている。

愚かに見られるけど

それが世界に新たな色を与える。

 

だから、夢を見る愚かさも、

痛みも世界にとっての希望だ』

 

 

 

憧れに近づこうと手を伸ばすと

いろんな壁が襲いかかって

胸を張りさき、

夢を「勘違いだった」と思いこませてしまう。

 

そんな雲を掴む様なこと

しなくていいのに

実体のない希望の光を追い、

追った先に見える景色を見たいと戦うのが、

夢見るドリーマーたち。

 

希望に向かって奮闘する芸術家たちの希望と失望を

この映画を通じて感じたことで、

わたしも世界の無限の可能性を

また信じよう、と思いました。

 

 

おっと話はずれましたが、

さてさて話を本題に。

 

そんな「世界はまぶしい」と信じる

ドリーマーのひとりである

妹 あゆみの服飾専門学校の卒業コレクションがパリで行われたので行って来ました!

 

 

着いたその日は、あゆの地元のレストランで

早速フレンチ。

 

家族の再会を喜びながら、

 

早速パリの雰囲気に飲まれ、

うっとりとした時間が流れてく。

  

美味しい魚に、お肉に、

ビールにワイン…

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パリは夜10時頃まで

日が出ているので

のんびり夜が更けて行きます。

 

夕食のあとは、

地元で人気のライブもしているバーへ。

 

バーの半分はテラス席、

半分は演奏が聞けるライブハウスのような造りで、

わたしたちはワインを飲みながら

地元の人たちの演奏や歌を堪能。

 

テラス席から吹いてくる風が気持ちよく、

ワインと一緒に聞くムーンリバー

背筋がふわっとゆるむ心地よさでした。

 

 

 

2日目は、母の高校時代の友達で

現在は旦那さんの転勤でイギリスに住む

まさこさんと合流。

ロンドンからパリは、電車で約二時間の

至近距離なのです。

 

昼にはガレット店が立ち並ぶ

ガレットストリートで、サーモンと卵が入った

サクサクモチモチのガレットを食し、

 

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妹の通う学校の見学へ行き、

 

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母が大阪でよく行くアクセサリーパーツを売る

お店のパリ本店へ。

 

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手作りアクセサリーを夜な夜な

開発する母は、

パーツの入った瓶がずらりと並ぶ

アクセサリーパーツの聖地へ行けて

生き生きしておりました。

 

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ディナーは、わたしの中高の同級生の

お姉さんが働く和風フレンチのお店。

 

繊細な計算がされ尽くされている

食材同士が混ざり合う芸術…

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そして各テーブルを結婚式の挨拶のように練り歩く

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最後のアイスにビオラが置いてあったときは、

「くせがすごい」と言わずにはいられなかったけれど、

ロマンチックに酔ったフランス2日目でした。

 

 

そんな感じで始まった夏のパリ記、

次回はついに妹のショーの幕開け!

 

 

 

 

漱石の読み方を習いに行ったよ、の巻

社会人になって、決まった給料を

与えられるがままに生きている間に

半年すぎておりました。

 何てったって金銭的余裕というのは素晴らしいもので、

一年目のくせに生意気に

韓国へ行ったり、北海道へ行ったり、

パリへ行ったり。

そんな融通のきく会社に感謝感謝です。

 

 

平日は、残業をなるべく少なくするようせっせと働き、

仕事が終わると、刺激のない毎日にせめて空想だけでも、

と本ばかりむさぶり読む毎日を過ごしております。

 

「はあ、こんなことするために

わたしは死ぬ気で大学時代に勉強したんじゃないよな。」

 

「うーん、なにかが間違っている。」

 

と悶えながら、暖かい実家でぬくぬく箱入り娘継続中でございます。

 

箱に入ってくつろいでいると無駄に焦る一方なので、

箱ごとどんぶらこっことどこか刺激的な場所に送られてしまえば

鬼退治なんて最高にドラマチックで人生に意味のあることができて

いいのにな、と考えつつ毎日不毛な時間を過ごし、

だけど結婚したら家族とこんな風に住めないし、

父の病状も心配だし、なんかこのままでも誰も傷つかなくていいよね、

 

なんて思ったりもする、

 

そんなもやもやした日々でございます。

 

しかしまあ

どうせ逃げる毎日を過ごすなら

「文学」を使って、過去をさかのぼって高度な現実逃避をしたいな、

 なんて思っていた所に、たまたま見かけた

 

日本文学振興会文藝春秋が共同主催する

「人生に、文学を」

というプロジェクトの広告。

 

主に東京と大阪で有名作家を招いて講演を行う企画らしいのですが、

たまたま関西でもやるらしかったから

高橋源一郎の「名作の読み方」という講座に応募しました。

 

彼の作品は正直読んだ事無いけど、脳内トリップ、高性能な現実逃避に

小説、そして名作は欠かせねえ!

 

それに近代史と小説が融合する講義とか好奇心爆発!!と、応募を決心。

 

定員が50人で、講演聞くだけなのに選考があるらしく

まあまあ長めの文字制限のある講演志望動機を書いて送り、

忘れたころに、招待状が届きました。

 

 

課題図書が、夏目漱石の「坊ちゃん」と「こころ」で、

「必ず読んで来て下さい」とプッシュしてあったので

昔読んだけど、もう一度Kindleから二冊拾い出し、

 

「ああこんな話だっけな、」

 

漱石の文章洗練されすぎてため息」

 

「いや自殺する意味が分からん、」

 

「明治の精神に殉するってなに?」

 

と色んな疑問を抱きながら、当日を迎えました。

 

 

 

神戸女学院の文学館の一室が会場で、

集まった本好きのみなさまの机の上には

読み古した漱石が並びます。

  

この企画の趣旨は、

「廃れ行く文学界を盛り上げ、文学を世に広めること」

らしいんですが、

長めの志望動機書いて、漱石二冊を読んで、わざわざ神戸の女子大にまで足を運ぶ人なんてのは、すでに文学なしじゃ、辛くて死んじゃう系のひとたちだよね。(偏見)

 

 

講演が始まり、細身で白髪の

おしゃれなおじさま、作家高橋源一郎さんの登場。

  

まず名作『坊ちゃん』について。

 

わたしは、漱石の洗練された面白い比喩と

小説自体のリズムに乗せられて、社会に出たての坊ちゃんが社会と戦いながら成長する姿に共感しながら、心地よい気持ちで読んだんだけど、

 

それは素人、ひよっこの楽しみ方。

 

 

小説のなかの登場人物たちの実家設定や、敵役の教師の発言などを、

時代背景と照らし合わせて読み解くことで、

漱石が『坊ちゃん』の中に込めた、

明治維新後に西洋の植民地へと変わっていく日本への危惧や、

地位を奪われた元幕臣たちの苦い想い、文明開化への反発が浮き出て来る、と。

 

 

そうやって、作者が小説に宿した真意を咀嚼するのが

脳内トリップをより一層楽しくするポイント!らしく、

 当時の空気を感じるコツらしいのです。 

 

 

でも、伝えたい事は直接書けば伝わるのに

なんでわざわざ暗喩する必要があったのか。 



 

それを読み解くヒントは『こころ』に隠されています。

 

『こころ』は、先生のなが〜〜い遺書が最後に綴られ、

 

その先生の自殺の原因が、

「親友を裏切って殺した過去があり、ずっと報わねばと思いつつ生きて来たが、

明治天皇が死んだので殉死する」

 

という

なんとも平成ガールには理解しがたい動機なので、

 

読んだ後に、同じ日本人と思えない時代の壁を感じておりました。

 

 

しかし、今回高橋さんの解釈を聞いて、

びっくり。

 

「明治の精神に殉する」というのは、皮肉で逆説というのです。

 

その時代に苦しんだのは、地位を奪われた旧幕派の人々だけでなく、

作家もまた、厳しくなる言論統制の下で活動を制限されて苦しんでいました。

 

 

そこで起きたのが、

 明治政府が、当時の反政府派や社会主義者たちに、

明治天皇の暗殺を企てた」とねれ衣をかぶし、

罪のない逮捕、起訴、死刑判決を下した

1910年の大逆事件

なんだか共謀罪ちっくだな)

 

 

罪のない国民に罪を押し付けることのできる明治政府の権力の強さを、

漱石をはじめとする明治の作家達は恐れ、

 政府に逆らうと殺されうる、書きたくても書けない社会ができあがってしまった。

 

そんななか、1914年に 

漱石は『こころ』の連載を始めます。

 

漱石の小説は、モデルすらも分からないことで有名らしいのですが、

高橋さんは、小説に出てくる「K」の出身や生い立ちから

一人の人物を浮かび上がらせます。

 

小説の中で書かれた通り、実家が寺で、養子に出されて苗字が代わり、

また大逆事件に強い反感を持ち、政府や時代の批評を精力的に書き続けたのが、

 歌人 石川啄木だったそう。

 

 

そして、当時政府と強い繋がりを持っていた

朝日新聞の文芸欄を任されていたのが、

夏目漱石

  

つまり、政府と作家の間にいたのが漱石であった。

 

  

当時啄木は、閉塞していく時代への批判を幾度も書いていたが、

世に公表されることはなく、漱石も啄木の文を朝日新聞に掲載しなかった。 

 

筆の威力を懸念する政府の目があり、

決断ひとつで人生が終わる可能性を漱石も恐れていたのだろうが、

 漱石は啄木の評論の掲載を拒否することで

歌人、作家としての啄木の魂を殺してしまった。

  

日本の現在、未来に真っ向から向かおうとした啄木だったが、

1912年に体調を崩し、無念のままこの世を去る。

 

漱石はひとりの作家の魂を葬り、

時代閉塞に加担してしまった自分の

喪失感や怒りを、『こころ』に込めたかもしれない。

 

それを念頭に置いて『こころ』を読むと、

先生が「明治の精神に殉する」と遺書に綴った言葉が 

自由と地位を奪った明治政府への皮肉だと理解でき、

無知のまま読み終えた時感じた時代の壁が薄れるのを感じました。 

 

伝えたい事が書けないその時代に、作品として小説を完成させつつ、

暗喩に暗喩を重ねることで激動する時代の問題に真っ向から立ち向かった

夏目漱石

  

  

書いた100年後にわたしみたいな赤ん坊が読んでも、

当時の漱石の苦しみを理解できるなんて、

魔法みたいなことができちゃうのが小説の凄さだし、

それにはやっぱり歴史背景を知らないといけないよなあ〜。

 

というのが、今回の講演の内容でした。

 

 

そしてこれまた興味深い解釈が、維新の犠牲者であり、近代人の原型である

「坊ちゃん」が太平洋戦争を起こした。というもの。(極論!)

 

というのも、戊辰戦争で負け、明治維新に押しつぶされた旧幕の人々は

どの仕事でも出世などできず、正当に評価されることはなかった。

  

しかし、1920年に陸軍が成績によって軍人を評価するようになり、

またその「成績」というのも、日本が勝ちます!といった案を出せば満点。

 なんてテストだったらしいので、

 維新のトラウマがあり、やっと公平な地位を与えてもらえた旧幕の人々は

 こぞって陸軍に入り、反明治維新=反西洋思想を爆発させます。

 

その結果、偏った陸軍の暴走が始まった、と。

 

 

坊ちゃんは、小説のなかでは23歳だけど、

終戦で60歳のはずだから、ちょうどそのくらいの歳の

旧幕派たちの暴走が、太平洋戦争を招いた、

 と仮定すると、坊ちゃんのような維新コンプレックスを抱いていた

普通の若者たちが太平洋戦争を起こしたんだと、考えれるらしい。

 

普通のひとたちが、環境や時代、政治によって姿を変え戦争を起こしてしまうなんて、

人間ってつくづく脆くて恐ろしい生き物だよね。

  

 今回新たな解釈を聞いて、時代の壁を感じていた小説の中の人物たちが

より生々しい人間だと思えるようになったし、

 現代化、西洋化の中で変わりゆく日本の姿や、政府による自由の剥奪によって揺れ動いた漱石の「こころ」に触れたような、そんな気がします。

 

 

今ニュースで見て、理解しがたいと思う人々の行動も、

一概に「悪」と決めつけるんじゃなくて、

根本から理解し合えるようになれば、なにか変わるかもしれないよね。

(そういうものを私は書きたい)

 

長崎にて〜全体的にヘビーです〜

長崎のソウルフード、名物トルコライスを食べに、『ツル茶ん』へ。

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ナポリタンと、ピラフ、熱々のトンカツの上にカレーがかかっている

とってもボリューミーで、すんごーく美味しいトルコライス

妹とわけわけ。

一人では食べれない胃が弱めな姉妹。

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最終日は軍艦島に行く予定だったんだけど、

大雨で運航中止。

というわけで我々は、修学旅行以来の

原爆資料館へ。

 

 

 

長いらせん状のスロープを下り、資料館へ入る。

スロープの周りには2010から5年ごとに数字が減って行き、

原爆投下から現在までの70年の重みが体感できる。

 

1945で数字が終わり、資料館の入り口へと繋がっていく

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多くのキリスト教徒が殉教していった、哀しみの土地長崎に、またしても神は苦しみを与えた。

たくさんの祈りが毎日捧げられる土地に起きた悲劇。

 

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広島の原爆資料館に数年前訪れたときに、

米軍と大統領との手紙や資料から、日本が当時どれだけ卑下されていたかを痛感させられて、ショックだった。

(ドイツは爆弾や薬物を落とすとそれを研究する力があるから恐ろしいが、日本にはないから何しても大丈夫、と資料の手紙に書かれていた)

 

人を個人と思わずに、数字の塊と考える。

日本国籍を持ち、日本で生まれ育ち、日本の教育を受け、日本のメディアを信じる。

それだけで、日本人を「野蛮な生きる価値もない生き物」とまとめた。

 

その結果『日本人』が「顔の無いのっぺらぼうの野蛮集団」という認識になって、

酷い事もできたのかな。

 

73,884人の死者を出した、長崎の原爆投下。

その数も、正直私はピンと来ない。

 

73,884人みんな、私たちと同様誰かの息子や娘で

誰かの母や父なんだ、ってことを

気を付けていないと皆すぐに忘れてしまう。

 

この写真の丸焦げの死体が

写真に写ってる女の子の母親ということが

何十年か経った後に発覚した、と

案内員のおじさんが教えてくれた。

 

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腹を痛めて産んで、必死で体や心を削って育てた娘。

その娘にさえも気付かれない姿に身を変えた、お母さん。

なんの罪も無いこの二人が会話する幸せを、

一瞬にして原爆は奪った。

 

当時原爆投下の候補には、大阪も入っていた。

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もし大阪に原爆が落ちていれば、私はいまここに存在しなかったかもしれない。

 

 

アメリカの大学で歴史の授業を受けた時、

先生が「米軍の日本への原爆投下は正しかったと思うか」

と米国人たちに問いかけた。

 

長崎県佐世保出身の祖父から原爆の恐ろしさはよく聞かされていたし、

修学旅行ではたくさんの折り鶴と共に慰霊碑に手を合わせ、

二度とこんなことが起こらない様に、と祈りを捧げた。

 

そんな私は、先生の突然の問いに対して

当たり前の様に眉をひそめていたが、

半数の米国人クラスメイトたちは、

「それによってより多くの米国人の命が救われた」と原爆投下を正しい判断と擁護した。

 

わたしはびっくり仰天したが、「ああ、私が常識と思っていることは環境が変わると常識ではなくなるんだ…」と、世界の広さを再確認することとなった。

 

「核を持って、核と戦う」

 

その概念を、オバマ大統領は否定した。

しかし、トランプ次期大統領は肯定する。

 

綺麗ごとでは済まされない外交問題で、

終戦から70年経った今でも、変わらないことはたくさんある。

 

インターネットやSNSの登場は、互いの理解を深める革新的な手段であり得る。

互いを理解しあえる時代の到来か!?と見えても、

顔の無い活字の暴走は止める事ができないし、余計聞きたい情報ばかりが目に入るしくみになりつつあり、より危なくなってるという声も聞く。

 

終戦から70年経ち、グローバル化が進む今でものっぺらぼうの存在は消えない。

 

「If you wanna make the world a better place, take a look at yourself, and then make a change」

ー世界を良く変えたいなら 自分を見つめ、変わることだ

 

とマイケルジャクソンが歌う様に(♪Man in the mirror )

私だけでも 色んな幸せや苦しみを『想像』し『理解』しようと努めようと思う。

 

「世界平和を望む」とか言うくせに

ベッキーの苦しみを『想像』も『理解』もせず ごちゃごちゃ言う人にはならない様

2017年は柔軟に人の話をしっかり聞き、

本物を追求するスタンスで行きたいと思います。

相変わらず重めのわたくしですが、

本年もよろしくお願いいたします。